看板

赤坂青野の変革の歴史 和菓子屋へと




看板商品「赤坂もち」は3代目が工夫したものです。
原形は餅と黄な粉が別々になっていて、まず餅をとり、黄な粉をつけて食べるというものでした。このようなお菓子は初代の時から製造されていましたが、それを1つの器に入れ、1個ずつ風呂敷包み式にしたのが3代目の工夫でした。
今でこそこの種の商品は氾濫していますが、青野が最初にはじめたものです。
もうひとつ、「一つぶ」という栗まんじゅうも、1個の栗を丸ごと餡の代わりに入れ込む工夫も青野が最初にはじめたもののひとつでした。


「赤坂もち」でおなじみの「赤坂青野」ですが、先祖は台東区谷中出身で 店頭売りだけではなく、荷を担いで出て街頭売りもしていました。
やがて、明治維新を迎え、文明開化の世のなかになると「青野」は飴の類の駄菓子売りから大福、ぼた餅、ようかんなどの甘味を扱う餅菓子屋に転業し、店も神田から五反田に移転しました。こうして今の前身、餅菓子屋「青野」が誕生しました。
その後、22年間五反田で店売りをしながら都心への出張販売を続けていましたが、赤坂の地が商店街として発展し始めたのを機に明治32年現在地の港区赤坂7丁目に移転し、2代目一三太郎(ふみたろう)が店主となりました。
2代目の当時、明治以降の赤坂付近には高位高官のお邸がたくさんあり、それらのお邸のお勝手口をたずねて注文を取ってまわる、御用聞きをしていました。そのスタイルは今も昔も青野のポリシーとして色濃く残っております。


青野は戦時中も商売を続けていました。

砂糖不足の時世でありましたが、飴屋時代の経験を活かし、甘味の材料にはいろいろと工夫を凝らしました。
製造器具は土蔵に収納しており、付近一帯が空襲の被害を受けて全焼しても青野は被災をまぬがれ、終戦を迎えることができました。
昭和22年には青野は株式会社になり、3代目鑑次郎が代表取締役に就任しました。




昭和53年、赤坂3丁目に赤坂見附店を開店しました。販売のみの狭い店舗ではありますが、駅の隣という利便性から多くのお客様にご来店いただいております。 その後、平成元年には前当主の啓太郎が4代目として就任致しましたが、平成12年啓太郎の突然の他界により、5代目が暖簾を守ることになりました。
赤坂に店を構えて100年、時代とともに街も、世情も変わりましたが、この間、「青野」は伝統の味を守りつつ、一方で赤坂らしい粋な味の探求に努めてまいりました。これからも和菓子作りにかける情熱は変わりません。一人でも多くのお客様に喜んで頂けるよう、精進致します。